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イスラムとシーエついて
クルアン 2012/1/8 4:54 AM

وَمَن يَبْتَغِ غَيْرَ الإِسْلاَمِ دِينًا فَلَن يُقْبَلَ مِنْهُ وَهُوَ فِي الآخِرَةِ مِنَ الْخَاسِرِينَ

 

善い勧告で執り成す者には,それに相応する分け前があろう。

また悪い勧告で執り成す者は

,それに相応する重荷を負うであろう。アッラーは,

凡てのことに御力を御持ちになられる

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クルアン 2 2012/1/20 10:27 PM

 

.慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。

.万有の主,アッラーにこそ凡ての称讃あれ,

.慈悲あまねく慈愛深き御方,

.最後の審きの日の主宰者に。

.わたしたちはあなたにの・崇め仕え,あなたにの・御助けを請い願う。

.わたしたちを正しい道に導きたまえ,

.あなたが御恵・を下された人々の道に,あなたの怒りを受けし者,また踏・迷える

人々の道ではなく

 

スレ:アルファテヘ

 

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クルアン 2012/1/15 6:10 AM

 

「だからわれを念じよ。そうすればわれもあなたがたを御

心に留めおくであろう。われに感謝し、恩を忘れてはなら

ない。」雌牛章:152

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イスラームの信仰 2012/1/15 0:11 AM

 

イマーム


私たちは、神様が預言者を私たちのもとに遣わされた理由と同じ理由でイマームも神様がお決めになることであると主張している。預言者の存在が私たちに必要であったように、イマームの存在も私たちに必要である。私たちが戒律上、疑問点があった場合に、預言者がいたときは、直接預言者に聞いた。預言者の後は、誰に聞けばいいのだろうか?また預言者がいたときは、イスラーム共同体、国家の指導者は預言者、その人であった。預言者の後の指導者を残された信者たちが決定するものだろうか?いな、決してそうではない。預言者を遣わされた方が、その後の信者たちを指導者なしに放っておかれるはずがない。預言者が生きていらしたとき、たびたび、預言者は、「自分の後はアリーに従いなさい。」という神様の命令をお伝えになった。一番有名な言葉は、預言者が「別れの巡礼」の時に言われた、「誰でも私がその人のワリー(指導者)である人は、このアリーがその人のワリー(指導者)である」というものである

 

 

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アルバインは、大使館カルバラー殉教者もしくは

もしくは2012年1月14日土曜日、

クルアン10:00ー 10:30 -

 歌のイマムホセイン10:30講演会午前11時15


 お祈り:12:30祈り午前

 

 

 

式典にイランの大使館です

住所:〒106-0047  東京都港区南麻布3-13-9 

イマムホセイン

イマムホセイン

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アッラーフ 2012/1/6 7:11 PM

アッラーフ

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イスラーム教におけるアッラーフ

アッラーフがクルアーンを授けたとされるムハンマドは、アッラーフより派遣された大天使ガブリエルからアッラーフの受託をアラビア語で語った使徒であり、最後にして最大の預言者とされる。これはあくまでもアッラーフから被造物である人類のために人類のなかから選ばれた存在に過ぎない。また、そもそもアッラーフ自体が「生みもせず、生まれもしない」絶対固有であるため、キリスト教神学におけるイエス・キリスト像のように、ムハンマドを「アッラーフの子」と見なすような信仰的・神学的位置付けもされていない。

イスラーム教ではアッラーフは、生みも生まれもしないとされ、親も子供もいない[1]。また、全知全能唯一絶対であり、すべてを超越する。そして、「目無くして見、耳無くして聞き、口無くして語る」とされ、姿形を持たない、意思のみの存在であるため、絵画や彫像に表すことはできない。イスラーム教がイメージを用いた礼拝を、偶像崇拝として完全否定しているのも、このためである。

イスラームの教えは先行するユダヤ教・キリスト教を確証するものであるため、アッラーフはユダヤ教・キリスト教のヤハウェと同じであるとされる。しかし、ユダヤ教、キリスト教はこれを認めていない。したがってアッラーフは六日間で天地創造したと同時に、最後の日には全人類を復活させ最後の審判を行う、終末をつかさどる。

ただし、一切を超越した全能のアッラーフが休息などするはずがない。という観点から、創造の六日間の後にアッラーフが休息に就いたことを否定するなど違いはある。これはイスラームがユダヤ教やキリスト教を同じ「啓典の宗教」として尊重しながらも、それらの教えに人為的改変あり、と見なしてきたことの顕著な例でもある。クルアーンが現在の形になったのはムハンマドの死後であるが、イスラム教徒はアッラーフが遣わせた大天使ガブリエルからムハンマドに言わせた言葉が現在のクルアーンに、完全に再現されていると考えている。

アラビア語ならびに他宗教におけるアッラーフ

元来、アラビア語でアッラーフは英語でいう God である。そのため、現在ではアブラハムの一神教といわれるユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の共通の唯一絶対神を指す。ちなみにアラブ地域の聖書ではヤハウェを「アッラーフ」と表記している。例えば、東方正教会のアンティオキア総主教庁、アッシリア教会 (ネストリウス派) 、西シリア教会 (非カルケドン派) などでは、創造主を「アッラーフ」と訳している。しかしながらマレーシアではイスラム教徒以外が用いることが制限されており、同国でカトリック系新聞『ヘラルド』が掲載した際には、政府から使用禁止が命じられた

また、前述のとおりアッラーフはアラビア語で特定の神を指し示す言葉であることから、イスラーム発祥当時のアラブにいたユダヤ教徒・キリスト教徒も唯一神であるヤハウェをさしてアッラーフと呼んでいた。

ムハンマドに啓示が下された後、イスラームにおいても万物を創造し、かつ滅ぼすことのできる造物主こそが唯一とされ、その超越性が強調されるようになった。

ただし、考古学的見地では、ヤハウェとイスラーム教の唯一神アッラーフは別の起源であり、イスラーム教の唯一神アッラーフは、630年以前は、カアバ神殿に祭祀されていた最高神の呼称である。イスラーム教でいうジャーヒリーヤ(無明時代)に、カアバ神殿に祭祀されていた360の神々の最高神がアッラーフとされていた。アッラーフの下には、アッラート、マナート、アル・ウッザーの3女神が付き従っていたという。これらの女神はアラブの部族神であり広く信仰されていたが、クルアーンにおいて否定された。月からの隕石とされていた黒曜石は、アッラーフの神体とされていた。もちろん、偶像崇拝を禁じるイスラーム教では、信仰及び崇拝の対象になってはいないが、ハッジ(メッカへの巡礼)においてこの石に触れることができれば大変な幸運がもたらされるとされている。

 

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シーア派 2012/1/6 7:6 PM

シーア派

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イスラム教宗派の分布図
黄緑:スンナ派
緑:シーア派
 

シーア派は、イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派である。

イスラム教の開祖ムハンマドの従弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体(ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。

 

「シーア」とは

シーアは、アラビア語で「党派」を意味する普通名詞で、初期のシーア派の人々が、「アリー派」((شيعة علي、Shī‘ah ‘Alī), と呼ばれたことに由来している。のちには、シーアに単に定冠詞を付したアッ=シーアという語で同派を意味するようになり、宗派の名称として定着した。シーアに属する人のことをシーイー(شيعي、Shī‘ī)といい、スンナ派信徒を意味する「スンナに従う人」(スンニー)に対応する。従って、シーアあるいはシーイーに「派」という語を付すのは「派・派」となり厳密に言えば同一語の繰り返しである。

信徒分布

信徒は世界中に分布するが、イラン、イラク(国内のムスリムは全人口の95%、全人口の3分の2がシーア派)、レバノン(政治的理由から公式資料なし〔レバノン内戦参照〕だが、人口の半数以上を超えているといわれる)、アゼルバイジャン(85%)では特にシーア派住民が多い。またパキスタン(20%)、サウジアラビアの東部(10%)、バーレーン(70%)、オマーン、アフガニスタン(ハザラ人など)にも比較的大きな信徒集団が存在する。

シーア派内の宗派では、十二イマーム派はイラン、アゼルバイジャン、それらの周辺地域(イラク、サウジアラビア東部等)、レバノンに多い。イスマーイール派(七イマーム派)はアフガニスタンなど各地に点在する。ザイド派(五イマーム派)はオマーンで主流である。

シーア派はその登場以来、原則として多数派のスンニ派に対し少数派の立場にあり、シーア派の信徒は山岳地帯など外敵が容易に侵入できない地域に集団を形成することが多かった。シーア派の王朝は歴史上いくつか存在するが、多くの場合シーア派が主流であるのは支配者層に限られ、住民の大半はスンニ派であった。ただし、現在のイラン・アゼルバイジャンを中心とした地域ではシーア派は地形にかかわらず多数派となっている。これは16世紀にこの地を支配したサファヴィー朝が十二イマーム派を国教とした際、住民の多くがスンナ派から十二イマーム派に改宗しそのまま根付いたためである。

教義

アリーの子孫のみがイマームとしてイスラム共同体を率いることができるという主張から始まったシーア派は、その後のスンニ派による歴代イマームに対する過酷な弾圧、そしてイマームの断絶という体験を経て、スンニ派とは異なる教義を発展させていった。

歴代イマームを絶対的なものと見なす信仰・教義、歴代イマーム(特にアリーとフサイン)を襲った悲劇の追体験(アーシューラー)、イマームは神によって隠されており(ガイバ)、やがてはマフディー(救世主)となって再臨するという終末論的な一種のメシア信仰は、シーア派を特徴付けるものである(ただし、ザイド派等これらを否定する分派も存在する)。

スンニ派に比べ、一般に神秘主義的傾向が強い。宗教的存在を絵にすることへのタブーがスンナ派ほど厳格ではなく、イランで公の場に多くの聖者の肖像が掲げられていることにも象徴されるように、聖者信仰は同一地域のスンニ派に比べ一般に広く行われている。一時婚があるため、一定の条件を満たせば、恋人同士の婚前交渉が認められる。

しばしばスンニ派と比べて過激派だと言われることがあるが、逆に穏健派だと言われることもある。同様に原理主義的だと言われることも原理主義と相容れないと言われることもある。シーア派の実態は分派、学派、時代、地域によって様々であり(スンニ派も同様)、その政治的・宗教的姿勢を一概に言うことはできない。

イランにおいては、フサインはサーサーン朝王家の女性を妻とし、以降の歴代イマームはペルシア帝国の血を受け継いでいるという伝承があり、ペルシア人の民族宗教としての側面もある。

分派

 

 

ーア派主要分派の系統

シーア派は、預言者の後継者の地位をめぐって政治的に分裂した経緯をもつため、しばしば正当なイマームとしてアリーの子孫のうち誰を指名するかの問題によって分派した。現在、宗派として一定の勢力をもつのは、十二イマーム派、イスマーイール派、ザイド派などがある。十二イマーム派はイランやイラク、レバノンなどに勢力をもち、シーア派の比較多数派である。

イスマーイール派

イスマーイール派は、7代目のイマームをめぐって十二イマーム派とは別の道をたどった派で、第7代イマームが死んでその子孫の絶えた後に、誰を指導者として推戴してゆくかの問題によって、多くの派に分かれている。もともと主流派では7代イマームの死後、イマームは存在しなくなったと考えているので、イスマーイール派は通称七イマーム派ともいう。イスマーイール派のうち現在もっとも勢力の強いインド・パキスタンのホージャー派は、イスマーイール派の諸派のうち12世紀にイマーム制度の復活を宣言したニザール派の系譜を引いており、現在もイマームが指導している。

ザイド派

ザイド派は十二イマーム派やイスマーイール派に比べると少数派で、イエメンに勢力をもつ。ザイド派は先の二派と分派したのは5代目のイマームの継承をめぐる問題であったので、五イマーム派と呼ばれることもある。

そのほかの分派やイスラムからの分離

シーア派の中にはスンナ派に対して政治的に先鋭的な主張を持ち、スンナ派と一線を画していく中で特に独特の教義をもつにいたった分派も存在し、系統不明のアラウィー派やイスマーイール派の流れを汲むドゥルーズ派などは、しばしば他のムスリム(イスラーム教徒)からイスラームの枠外にあるとみられている。バーブ教(バーブ派)やバハーイー教(バハーイー派)は既にイスラムから完全に分離したとされている。

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イマムアリー 2012/1/6 6:58 PM

アリー・イブン・アビー・ターリブ

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(アリー・イブン・アビー=ターリブから転送)
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アリー・イブン・アビー・ターリブ、600年頃 - 661年1月27日)は、イスラーム教の第4代正統カリフ(在位656年 - 661年)。同教シーア派の初代イマーム。

預言者ムハンマドの父方の従弟で、彼の母もムハンマドの父の従姉妹である。後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマを娶った。ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフのウスマーンが暗殺された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤとの戦いに追われ、661年にハワーリジュ派によって暗殺される。

のちにアリーの支持派はシーア派となり、アリーはシーア派によって初代イマームとしてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。アリーとファーティマの間の息子ハサンとフサインはそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことから、スンナ派にとってもサイイドとして尊崇されている。

アリーの墓廟はイラクのナジャフにあり、カルバラーとともにシーア派の重要な聖地となっている。

 

生涯

生い立ち

アリーは預言者ムハンマド同様、マッカ(メッカ)のクライシュ族のハーシム家に属す。祖父はムハンマドと同じくアブドゥル=ムッタリブで、父のアブー・ターリブはムハンマドの父アブドゥッラーの同母弟である。つまり、アリーはムハンマドの父方の従弟にあたる。また母もムハンマドの祖父の姪であった。

アリーは西暦600年ないし602年頃にマッカ(メッカ)で誕生した。場所は父アブー・ターリブの家であったという説と、カアバ神殿内であったという説がある。日付はラジャブ月(イスラーム暦の7月)の13日と伝えられる。伝承によれば母のファーティマ・ビント・アサドは初め彼の名を「ハイダラ」(獅子)と名づけようとしたが、父のアブー・ターリブがそれを退けて「アリー」(高貴な人)という名をつけたとされる。また別伝によれば、ファーティマは「ハイダラ」、アブー・ターリブは「ザイド」という名を考えていたが、誕生を祝いに訪れたムハンマドが「アリー」と命名したという。

アリーが5歳のときにアブー・ターリブ一家が窮乏に陥ったため、彼はムハンマドとハディージャの夫婦に引き取られて養子として育てられることになった。

青年時代

610年頃にムハンマドはアッラーの啓示をはじめて受けたという。このときアリーは、ムハンマドの妻ハディージャに次ぐ2番目の信者としてイスラームを受け入れたとされる。以後アリーはムハンマドとともにイスラームの布教につとめるが、ムスリムたちは度重なるマッカ市民の迫害により、622年にマディーナ(メディナ)への亡命(ヒジュラ)を強いられる。

ムハンマドがマッカを出発する頃にはすでに事態は切迫しており、反対派は彼の殺害計画を練っていた。アリーはムハンマドがマッカを脱出した夜、刺客を欺くために身代わりとしてムハンマドの寝床に横たわった。やがて暗殺者たちが現われたが、彼らはムハンマドの不在を知ると失望し、アリーに危害を加えることもなく去った。アリーはムハンマドの指示によって、その後なお3日間にわたってマッカにとどまり、ムハンマドが知人から預かっていた金をすべて精算してからマディーナへ向かったという。

ヒジュラ後、アリーはムハンマドの片腕として教団の運営やジハード(聖戦)に携わった。とくに戦場における活躍は目覚しく、アリーはバドルの戦い、ウフドの戦い、ハンダクの戦いで次々に敵側の名高い勇士を倒し、ハイバルの戦いではイスラーム軍の誰も陥すことができなかったハイバル砦を陥落させるなど、勇将としての名声を次第に高めていった。

ムハンマドの死と継承問題

ムハンマドは632年に没し、ウンマは最初の危機を迎えた。そこで、ムハンマドの晩年の妻アーイシャの父アブー・バクルが、選挙(ムスリムの合意)によって指導者に選ばれ、アッラーの使徒ムハンマドの代理人を意味するカリフ(ハリーファ)を名乗った。アリーもムハンマドの後継者の候補であったが、若年を理由に外されたと言われている。

正統カリフたちの時代

アラビア半島のアラブ人の統一を達成したアブー・バクルは634年に病死し、ムハンマドの妻の1人ハフサの父ウマルが後継者に指名された。ウマルは中央集権的なイスラム帝国を築き上げ、642年のニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝を滅亡寸前に追い込んだが、644年に奴隷に刺されて重傷を負い、死の床に有力者を集めて後継者を選ばせ、絶命した。このときの後継候補にはアリーも含まれていたが、後継カリフに選出されたのは、ムハンマドの2人の娘ルカイヤとウンム・クルスームを妻としていたウスマーンであった。ウスマーンは、650年頃にクルアーン(コーラン)の正典(ウスマーン版)を選ばせ、651年にサーサーン朝を完全に滅亡させるといった功績を挙げた。アブー・バクル、ウマル、ウスマーンと、その次にカリフとなったアリーの4代を、正統カリフという。

ウスマーンの死とアリーのカリフ就任

ウスマーンはしかし、自己の家系であるウマイヤ家を重視する政策を採ったため、クライシュ族の他の家系の反発を招き、656年に暗殺された。次のカリフ位をめぐって、ムハンマドの従弟にして娘婿のアリーと、ウスマーンと同じウマイヤ家のムアーウィヤが争った。曲折を経て、アリーが第4代のカリフに就任した。

ムアーウィヤとの対立

アリーがカリフに就任するが、ムアーウィヤや、ムハンマドの晩年の妻で初代正統カリフのアブー=バクルの娘アーイシャはこれに反発した。656年、アリーはまずアーイシャの一派をラクダの戦いで退けた。ムアーウィヤは、ウスマーンを暗殺したのはアリーの一派であるとして、血の報復を叫んでアリーと戦闘に至った。ムアーウィヤは、657年のスィッフィーンの戦いでアリーと激突した。戦闘ではアリーが優位に立ち、武勇に優れたアリーを武力で倒すことは難しいと考えたムアーウィヤは、策略をめぐらせてアリーと和議を結んだ。この結果、ムアーウィヤは敗北を免れたことでウンマの一方の雄としての地位を確保し、アリーは兵を引いたことで支持の一部を失うことになった。

ハワーリジュ派の登場

アリーがムアーウィヤと和議を結んだことに反発したアリー支持者の一部は、ムアーウィヤへの徹底抗戦を唱えてアリーと決別し、イスラーム史上初の分派と言われるハワーリジュ派(ハワーリジュとは「退去した者」の意)を形成した。

アリーの勢力の弱体化

ムアーウィヤは、660年に自らカリフを称した。ハワーリジュ派は、アリー、ムアーウィヤとその副将アムル・イブン・アル=アースに刺客を送った。アリーとその支持者は、勢力を拡大し続けるムアーウィヤとの戦いに加えて、身内から出たハワーリジュ派にも対処しなければならなくなり、疲弊を余儀なくされた。アリー自身はムハンマド存命中のウンマ防衛や異教徒侵略のための戦いで活躍したが、それは多くが数百の手勢を率い、自身も先頭に立って戦う野戦指揮官としてであり、個人的な武勇や戦術を超えた、数万の軍隊を指揮する戦略や有力な軍司令官や総督を引き込む政略では、ムアーウィアにはるかに及ばなかった。

アリーの最期

ムアーウィヤは刺客の手から逃れ、一方アリーは661年に暗殺された。正統カリフ4代のうち実に3代までが暗殺されたことになる。アリーの暗殺により、ムアーウィヤは単独のカリフとなり、自己の家系によるカリフ位の世襲を宣言し、ウマイヤ朝を開くことになる。これに反発したアリーの支持者は、アリーとムハンマドの娘ファーティマとの子ハサンとフサインおよびその子孫のみが指導者たりうると考え、彼らを無謬のイマームと仰いでシーア派を形成していく。これに対して、ウマイヤ朝の権威を認めた多数派は、後世スンナ派(スンニ派)と呼ばれるようになる。

シーア派の教義におけるアリー

シーア派では、アリーがムハンマドから直接後継者に任じられたとし、アブー・バクル、ウマル、ウスマーンの3代の正統カリフの権威を認めない(彼らを簒奪者であるとして呪詛の対象とすることもある)。そして、指導者として預言者ムハンマドの血を引くことを重視し、ムハンマドの娘ファーティマとアリーとの間に生まれたハサン、フサインの2人をそれぞれ第2代、第3代のイマームとする(シーア派のうちカイサーン派のみは、アリーと別の妻ハウラとの子ムハンマド・イブン・ハナフィーヤを第2代のイマームとする)。一般にハサンやフサインの血統の人々は、特に「シャイフ」や「サイイド」と呼ばれ宗派を問わずムスリム社会では尊敬を受けるが、サイイド自身も預言者の後裔として社会から尊敬を受けるべく身を律するよう求められており、シーア派のみならずサイイド自身がウラマーやスーフィー教団のシャイフなど宗教的職権を担うことも一般的であった。イドリース朝やファーティマ朝、サファヴィー朝のように場合によってはムハンマドの後裔を称する人々が政権を担うことも多くあった。ファーティマ朝はイスマーイール派の信仰規範を整備し、シーア派王朝としての正統性を主張し、サファヴィー朝も神秘主義教団から勃興して十二イマーム派をイラク、イラン全土に浸透させ、現在のイラン周辺のシーア派勢力の基盤を作った。ムハンマドの子女の多くは早世し、ムハンマドの血脈はファーティマを通じてのみ残されたため、ムハンマドの血を引くことはハサンまたはフサインの子孫であることとほぼ同義である。

イスラームの中でもとりわけシーア派においては、ムハンマドは無謬であったとされ、アリーを含めた後継のイマーム達にもその無謬性は受け継がれたと見る。そのためシーア派はスンナ派のハディースの内、アリーがアブー・バクルやウマル、ウスマーンに劣っていたとするハディース等[1]に関して、スンナ派によりアリーからのカリフの位の簒奪を合法化するために偽造されたものとみなす傾向にある。

スンナ派の教義におけるアリー

スンナ派においてもアリーは預言者の娘婿であり義息として、まだ4代目の正当カリフとして高い尊敬を受けている。(また一部には、彼の息子ハサンを5代目の正統カリフとみなす見解さえある)しかし全体としてアブー・バクルやウマル、ウスマーンのカリフ位を認めるスンナ派は、シーア派ほどアリーを高くは見ない傾向にある。

イスラーム神秘主義におけるアリー

アリーをめぐる伝承と人物像

アリーはアーイシャに対して激しい憎悪を公然と表していたことで知られる。駱駝の戦いの後アーイシャ側についたバスラ市民に対して『お前たちはその女(アーイシャ)の兵隊、四足獣(アーイシャ)の家来だった。そいつが唸るとお前たちはそれに応え、そいつが傷つくとお前たちは逃げたのだ。』[2]といい、アーイシャ自身にも『なんとかという女(アーイシャ)はといえば、女特有の思考に捕らわれており、彼女の胸のうちには鍛冶屋の大釜のように悪意が燃え滾っているのだ。』[3]と言及したエピソードが知られている。

アリーの遺言と格言

その他

  • 彼のみがスンナ派(スンニ派)、シーア派の両方から公認されたただ一人の指導者である。そのため、イラン・イラク戦争では、スンナ派のイラク兵はアリーの肖像を「お守り代わり」に持っていたといわれる(シーア派のイラン人も「アリーの肖像」には銃口を向けられない。そのうえ、スンナ派自身の信仰にも反しない)。
  • スンナ派のハディース集「真正集」(ブハーリー著)「遠征(al-Maghāzī)の書」のブライダ・イブン・アル=フサイブの伝によると、ヤマン(イェメン)への遠征の際、預言者ムハンマドはアリーを前線司令官であるハーリド・ブン=アル=ワリードのもとに戦利品の五分の一を受け取らせるため派遣したが、ブライダ・イブン・アル=フサイブの取り分であった捕虜女性(当時のアラブの慣習として、兵士は割り当てに応じてこのような女性を強姦して自分のものにする権利があった)をアリーが横取りし犯したという。事後にアリーが浄めのため身体を洗っていたため、ブライダはこれを憎んで預言者ムハンマドに訴え出た。しかし、ムハンマドはブライダにアリーを憎まないようになだめ、アリーには「これ以上に戦利品を得る権利があるから」とアリーを庇ったと伝えている[4]
  • イスラームでは性交渉後にグスル(ghusl:大汚を落とすための浄め。定められたの所作によって、両手、陰とその周辺、ウドゥー、頭部、全身を順々に洗浄する)を行うことが義務とされている。スンナとしての諸規程によって、グスルを行うべき状況は、性交、精液の放出、女性の場合は月経および産血が終わった時、イスラームに入信した時、死去して遺骸を浄める時である。これらのイスラームの・不浄観に関わるハディースにもアリーは登場する。例えば、ブハーリーの『真正集』「洗滌(ghusl)の書」によると、アリー自身の伝として、彼は早漏で悩んでいたが、妻ファーティマをはばかり人づてにファーティマの父でもある預言者ムハンマドに相談したところ、「浄めを行い、陰部を洗いなさい」と、通常のグスルの洗浄の所作と同じ対応をするよう勧告を受けたという[5]

脚注

  1. ^ スンナ派のハディース集である『真正集』(ブハーリー編纂)の「預言者の教友達の美点の書」の第4章1節、第5章の2の10節、第7章4節他
  2. ^ 『ナフジュ・アル=バラーガ』説教13、p81
  3. ^ 『ナフジュ・アル=バラーガ』説教154、p257
  4. ^ ブハーリー著「真正集」遠征の書、第61章2節。ただしこれはシーア派に比してアリーを低く見るスンナ派側のハディースであり、シーア派からは批判されている[要出典]
  5. ^ ブハーリー『真正集』洗滌の書、第13章1節。

参考文献

  • 『コーラン』 井筒俊彦訳、岩波文庫上中下巻、改版1964年、ワイド版。
  • 『コーラン』 藤本勝次・池田修・伴康哉訳、中央公論新社<中公クラシックス全2巻>、2002年。
  • 『聖クルアーン 日亜対訳注解』 三田了一訳、日本ムスリム協会、第2版1983年6月。
  • 『タフスィール・アル=ジャラーライン(ジャラーラインのクルアーン注釈)』全3巻 中田考監修、中田香織訳、日本サウディアラビア協会、2004-2007年。
  • 『ハディース イスラーム伝承集成』 牧野信也訳、中央公論社全3巻、1993-1994年。 中央公論新社<中公文庫全6巻>、2001年。(ブハーリーのハディース集成書『真正集』の完訳)
  • ズィーバ・ミール=ホセイニー 『イスラームとジェンダー-現代イランの宗教論争』 山岸智子ほか訳、明石書店、2004年
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イマムフサイン 2012/1/6 6:46 PM

 

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フサイン・イブン・アリー・イブン・アビー=ターリブ; 626年8月28日 - 680年10月10日)はイスラーム・シーア派における第3代イマーム(ごく一部では第2代)。母は預言者ムハンマドの娘ファーティマ・ザフラー、父はムハンマドの従兄弟アリー・イブン・アビー=ターリブ。ムハンマドの孫にあたり、シーア派のみならずスンナ派でもアフル・アル=バイト(御家=ムハンマド家)の一員として崇敬される。

フサインはヒジュラ暦61年のアーシューラー(ムハッラム月10日、ユリウス暦では680年10月10日)、カルバラーの戦いで惨敗を喫し戦死した。シーア派はアーシューラーに、その死を悲しむ祭式を行う。

 

出自

フサインはアリーとファーティマの次男である。フサインと兄ハサン・イブン・アリーはともに祖父ムハンマドの多大な愛を受けたという。

フサインとハサンの母ファーティマは幼時に没し、多数の異母兄弟とともに継母らに育てられた。フサインの育った時代は、イスラーム勢力が中東において急激に拡大した嵐のような時代であって、父アリー・イブン・アビー=ターリブはその政治の中枢にあって深く関わっていた。

カリフ権とアリー家

フサインの父アリーは656年、カリフ職に就き、以降661年まで務めた。アリーのカリフ位は常に脅かされており、ついにはクーファにおいてイブン・ムルジームによって殺害された。アリーの息子ハサンは父の死を受けてカリフに即位、アリーを破ってカリフに即位したシリア総督ムアーウィヤは次いでハサンとの戦いに臨もうとしていた。ハサンとムアーウィヤの勢力は何回か衝突したが決定的な決着には至らない。ハサンは内乱から来る帝国の内乱と支持者の苦難を慮って、カリフから退位することを決断、ムアーウィヤと約定を結んでマディーナへ退隠した。

これはアリー家とその支持者にとっては一時的な後退にすぎず、ムアーウィヤの没後にハサンがカリフ職に就き、カリフ権はアリー家に取り戻されるはずであった。したがってハサンとフサインは、預言者の孫・カリフの息子として指導権保持の主張を維持したのである。しかしムアーウィヤより前、669年にハサンは没し、フサインがアリー家の指導者となった。ムアーウィヤはフサインを無視して、その子ヤズィードを後継者として宣言。フサインを次代カリフ候補から除いたのであった。これはクライッシュ家内部での互選による継承から直系への継承へとカリフ職のあり方を変容させる意図による。

ムアーウィヤが没したのは680年のことであった。その首都、権力の中心地であるダマスクスではヤズィードが喝采をもってムアーウィヤを継ぐカリフに迎えられた。しかしながら、なおシリア以外の地域では、必ずしもヤズィードがカリフたることを奉じたわけではない。現在のイラク・クーファの人びとはヤズィードに対抗するため、いまやアリーの存命の息子たちで最年長となるフサインをクーファへと招いた。フサインはそのときヤズィードの軍から逃れ、マディーナからマッカにあった。彼は招致を受けて、妻子と彼に忠実な少数の戦士をあつめて、クーファへと進軍を始める。

カルバラーの戦い

 

サインとその営所の死んだ人々の埋葬地はこの二軒のモスクになった - カルバラー, イラク。

ヤズィードはクーファにおける反乱気運の高まりを聞いて、これを収めるべく軍を派遣した。フサインらはクーファへの到着をまえにしてこの軍と衝突。約3000の軍の包囲下にフサインらは水を断たれた。フサインは伝承によれば72名の程度の手勢しか率いておらず、ほぼ虐殺に近い形で一方的に殺害されることとなった。フサインとその近しい人びとの首は、生存した女子供らとともに、ダマスクスのヤズィードのもとへと送られた。ヤズィードは、フサインの家族・支持者らの資産を没収、身分を奴隷に降した[1]

埋葬

フサインの遺骸はその没地に近いカルバラーの街に葬られたという。首も多くの記録によると、のちに取り戻され、体と合わせて埋葬されたとされるが、逆にシリアにあるままで、その支持者らとともに葬られたとする見解もある。カルバラーのフサイン埋葬地には、のちにイマーム・フサイン廟が立てられ、現在もシーア派ムスリムの参詣する聖地となっている。

シーア派での伝説

フサインが、サーサーン朝最後の王ヤズダギルド3世の娘ジャハーン・シャーと結婚し、4代目イマーム、アリー・ザイヌルアービディーンを生んだという伝説。9世紀頃にはこの伝説は既に成立してたと考えられている(現存資料の初出はタバリー)。なお、ジャハーン・シャーは結婚後、シャハル・バーヌー(または)シャフルバーヌーイェ)と改名している。

スンナ派での伝説

フサインの未亡人にウンム・イスハーク・ビント・タルハがおり、ファーティマ・ビント・フサインを生している[2]

シーア派におけるフサイン

全てのシーア派はフサインをイマーム、また殉教者の長(サイイド・アッ=シュハダー)と考える。シーア派記録は一様にフサインはその努力の絶望的なことを知りつつも、なおイスラームとウンマをヤズィードから救うべく殉教への道を歩みだしたとしている。つまりシーア派信仰のなかでは自ら進んで宗教的義務と思われるものの犠牲となったのだと考えるのである。こうしてフサインは確信を秘めた勇気の持ち主として、また専制への抵抗者のモデルとなった。アーシューラーは、その悲嘆の日として、毎年フサインに捧げられる。

フサインの格言(伝)

  1. 神よ。ああ、汝を見失いし者の見いだしたりしは何ぞ。汝を見いだしたる者の見失うは何ぞ。
  2. 贈物を目当てに神を崇める者あり、これ商人の崇拝。罰をおそれて神を崇める者あり。奴隷の崇拝。感謝を捧げ、神を崇める者あり。真の崇拝にして、最高の崇拝

ラベル: イマムフサイン
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